■2:小さき手
セレニアの花が風に揺られて、さざ波を作る。
ざぁーとゆれる音は、どことなしか波の音に聞こえ、アッシュは海上にいるのかと、一瞬間違えそうになったぐらいだ。
倒れた自分の上には、吸い込まれそうな闇夜と、輝く譜石。
「ここは?」
重い身体を持ち上げ、あたりを見回すと、白い花々。
すぐにタタル渓谷だと分かった。
それはルークの強い記憶が連結した結果であった……。
ここはルークにとって忘れられない場所。自分のものではない記憶にゆり動かされ、アッシュの情感に柔らかなものが満たされる。
とりあえずケセドニアに向かうべく、大地に足を着け立ち上がり、自らの服装、状態を確認していると、遠くから懐かしさの感じる歌声が聞こえ、誘われるままその場へと向かった。
遠目に見える5人の人影。
闇夜で分かりにくかったが、かつてルークと旅をした面子だと分かり、そのまま近づいた。
アッシュは「約束」という言葉が嫌いだ。
だけど、交わした約束は確実に守る。そう決めていた。
「どうして……ここに?」
ヴァンの妹がかけより、問いかける。
「約束したからな」
ナタリア、アニス、ガイ。3人もティアの後ろから歩みよってくる。
ジェイドだけは、少しゆっくりと。
その後。アッシュはルークの死を告げ、ジェイドから大爆発の詳細が説明された。
渓谷の中で踊る静かな風の音は、ほどなくして大切な存在の喪失を嘆く音に切り替わった。
◇
アッシュの帰還はファブレ夫妻を多いに喜ばせたが、同時にルークの死を確定させ、悲しませもした。
成人の儀はルークの葬儀と成人を同時に行われ、アッシュの儀は別途盛大に行われた。
アッシュはそのままファブレに留まり、公爵家を継ぐための勉強を始めた。
ルークからは戻らなくてもいいといわれたが、彼はわかっていたのだ。最大の親孝行はバチカルに留まることだと。
それにクリムゾンもシュザンヌも喜んだ。
クリムゾンの喜びようは分かりにくいものではあったが、アッシュにきちんと伝わり、過去に認められないと悲しんでいた彼にとって、非常に嬉しいものであった。
だが「めでたしめでたし」と終わるには、現実は非常に厳しく、残酷であった。
ファブレ夫妻は、アッシュとルークを分けて考えていた。
だが一歩外に出るとそうでもなかった。情報の混乱により、同一視している者は多々居た。
そもそも激動の時代に情報がインフレをおこしており、退化した情報伝達経路が更にそれを加速させる。
17年以上ファブレの子供はルークただ一人と周知された事実が、いきなり二人いたと聞いても、冗談や偽情報だと勘違いする人の方が多かった。
それに、そもそも二人同時に公式の場に立ったことが無いのだ。
一緒に居たのは街中での非公式のわずかな時間だけ。
その少ない情報も、バチカルの偽姫騒ぎは混乱中であったし、ベルケンドの一幕はヴァンに協力した人間に対する粛正で誤情報が飛び交った。シェリダンでは死亡者多数ゆえに二人を実際見たという人間は間引かれていた。
アッシュと呼ばれているのを見ても、それを愛称だと勘違いした。
予言により消滅するはずだった焔が、再生の灰としてよみがえった。
その為の改名だと勘違いされた。
「別人だ」
問われればそう答えた。
それでも、アッシュとルークを同一視する貴族は少なくなく、世論はどんどんルークの軌跡をアッシュのものへと刷りかえられていったのである。
そしてアッシュは否定しても、ルークは別に居るということを訴えても、思うように情報が伝わらないまま、ただ時は流れていった。
そして、3年の月日が流れる。
ある日、内密にファブレの屋敷にインゴベルトが訪れた。人払いをし、来客室にてアッシュとファブレ夫妻は向かい合う。
部屋の中にそろう4つの赤髪たち。すでに赤に緑というキムラスカの伝統的な王族の血筋をもつのはこの4人だけである。その全員がそろって顔を合わせていた。
「アッシュよ」
その場で最初に話を切り出したのは、当然のごとくインゴベルトであった。
「――いや、ルーク。一度は改名した名前。戻さぬか?」
「オレはアッシュです、陛下。ルークはあいつにやった名です」
アッシュは首を振り答える。
嫌な予感が、彼を支配する。
この3年。アッシュは積極的に政治にかかわった。まだヒヨコな立場ながら、大地が水を吸うがごとく知識や経験をつんできた。
もともと神童と呼ばれていたその存在である。水を与えれば成長する伸び代を持っていた。
そんな政治の世界で生き、協力者を得てきた。
そして協力者には幾度と無く言われた台詞がある。何度言われようとはねつけてきたのだが……。
「それは分かっておる。だが、事情が変わったのだ」
クリムゾンもシュザンヌも、口を出さないで黙って聞いている。
「王とはいえ、国を動かすには一人では出来ない。嫌でも政治というものがかかわってくる」
施政者のトップに君臨する男は辛そうに語る。
「すべての貴族が味方についてくれる訳ではない。隙あらば下剋上を考えているやつらも少なからず居るのが現状だ。情けない話だが、わしの時代は色々ありすぎた」
ホド戦ではホドの崩落により得るものはなく、ケセドニア北部の戦いではマルクトに敗北している。ND2017の戦争の勝利で今までの損益を挽回する予定が、大地の降下により痛み分けの結果に終わった。
さらにアクゼリュスから始まった世界の危機は、戦争を起こすよりもたくさんの犠牲者が生まれ、音素の減少は強制的に時代の退化を促した。
結果的に彼の施政の間、利益はほとんどなく、不満を訴える貴族は少なからず現れた。
それでも今なお頂点として君臨し、権力を振るえるのは、ルークやナタリア達が働きによるものである。
その二人が王家に居るのだから、そういう世論が今の政治を支えている。
詳しく話さずとも、アッシュも分かっていた。
彼も子供ではない。勢いだけで突き進む若さはなりを潜め、社会に出て大人の世界に交わり、潔癖な心も「諦めや妥協」という言い訳で汚され灰色に染まっていた。
良くも悪くも、彼は大人になっていた。
「オレはあいつが、……ルークが認められたくて必死であがいていたのを知っている」
自分の価値を見出せず、がむしゃらに足掻いてきた。その人生をすべて知ってしまった。
生きてきた軌跡は確実に残せた。そう安心して死を選んだのを知ってしまった。
だからこそ。
アッシュは周りが何度改名しろと言っても肯かなかったのだ。
ルークの名は大きい。その名は英雄の代名詞としてあまりに有名だった。
アッシュも救世のために動いたが、彼の行動は裏方に徹し、地味であり知名度は高くない。
それに引き換えルークの行動は派手だった。
和平の交渉。崩落大地の説明に、住民の避難介助。瘴気の中和。あげれば多々あり、たくさんの協力者を募り目立つ場所にいた。
そのネームバリューの有益さに、アッシュに味方する存在は、彼の改名を望む。
彼の軌跡をのっとれと。
そして、今。ルークを知るインゴベルトさえも、そう持ち出してきているのだ。
「分かっておる。わしもルークを認め、もう一人の甥だと認めておる。
だが、わしら王家の地盤をしっかりとしたいのだ。ナタリアの為にも、おまえの為にも。そしてルークの為にも」
アッシュがルークとなって、インゴベルトにつけば王家の地盤はより強力なものになる。それは間違いなかった。
王家の血を引かない姫をかばうためにも、時期王候補であるアッシュへ繋ぐ地盤を確保するためにも。
そして、ルークの為には
「レプリカ問題ですか?」
「そうだ。お前とナタリアがレプリカに心を砕いて政策を立てているのは知っている。わしも、レプリカと交わした約束を忘れてはいない。だが分かっておろう?」
アッシュは眉間に皺を刻み、その言葉に目を伏せる。
現実問題は厳しかった。
レプリカのために割く国庫の余裕などまるでなかった。
ただの複製品よりも、新たなエネルギーを探し出す研究費用に、降下時の影響で荒れた街道の整備をとの声が大きかったのである。
今も、王の威光で苦心して予算を引き当てている状態であるが、それでも充分な活動をすることもできず、年々レプリカはその姿を消している。
人間様でさえ飢えて職のあてがままならないのに、レプリカに同情する必要はないと反論の声が高く、予算も政策も理解をほとんど得られなかった。空回りするレプリカ問題。
分かりたくなかった現実が、アッシュの道をふさいでいく。
表向きの綺麗事だけでは、何一つ動かせない。
あの時のように、剣を片手にむしゃらに進んでいくのとは違った辛さ。肉体には擦り傷ひとつ付いていないのに、心には何度も鋭利な刃物が傷をつけていく。
アッシュはしたくもない決断に迫られていた。
本来陛下の命令とあらば、彼に抗う術はないのだ。
こうやって非公式にたずねて、意見を聞いてくれるのはインゴベルトの優しさで思いやりだ。
分かっている。
それでも奥歯に力がはいり、握り締めた手は震えた。
「父上と母上はそれでいいのですか?」
「世間がどうであろうと、わたくしはルークの事を覚えていますから」
「それも国のためならば」
シュザンヌは儚く笑い、クリムゾンはアッシュを真剣な顔で正視する。
「ナタリアは?」
「これまでの概要。そして婚姻に対する障害や、次世代についてもあわせて話し合ったが、明確な答えは最後まで出せなかったようじゃ。ただ口出しはしないと。
あの子の心は清い。これでも最大の譲歩なのだろう」
ナタリアはルークの幼馴染であり、仲間である。
そして彼女は正義感が強い性格をしている。
だから政策のためとはいえ、ルークを犠牲にしたくなかった。
でも彼女も分かっているのだ。偽姫との逆風にあおられ、この5年間苦労してきたのだから。
「そうですか……」
もはや、アッシュはインゴベルトの頼みを突き放す道は残されていなかった。
たとえ心から望まないことだったとしても。
硬く目を閉じ、小さく了承の言葉を乗せた。
それはアッシュとして生きた人生を捨てることであり、さらに自分を生かしたルークに対する裏切り行為でもあった。
アッシュは心の一部が砕け割れ、同時に十字架の形をした楔が打ち付けられたと感じた。
◇
水の王都にある報告が運ばれた。
兵士が片ひざを付き、簡潔に奏上がなされていく。
ピオニーはそれを聞き、わずかに眉をひそめると片手を振って兵士を追いやった。
「おおむね予想通りといったところか。むしろよく3年もったと言ってもいいかもしれんな」
豪華絢爛な王座にだらしなく座り、ひじを立てあごを乗せると、つまらなそうに言い放つ。
「3年もたせたと褒めたところで、アッシュは喜びませんよ。おっと、今は“ルーク”様でしたね」
同じ報告を聞いていた傍らに立つ、彼の懐刀であるジェイドは肩をすくめ、皮肉を口に乗せる。
ピオニーもジェイドも、予想はしていた。
キムラスカがいずれアッシュにルークの軌跡をのっとらせるのではないかと。
マルクトもキムラスカと同じように救世後の執政に苦労してきた。
だからこそ余計に実感を持ってわかる。ルークという利用価値の高い英雄の名を、ただ無意味に腐らせておくのはあまりにも惜しいと。有効活用するべきだと。
だが、実際そのとおりになると、苦いものが広がる。執政者ではない、ピオニー個人としての感情が反発するのだ。
そしてジェイドもそれは同じなのだろう。だから、面白くもない皮肉を混ぜるのだ。
「世界はままならんな」
足を投げ出し、ピオニーはつぶやく。
全土の崩壊は免れたけれど、問題は山積みで解決しなければならない事も等しく山積みだ。
使えるものは何でも使い、やれることは何でもやらないといけない。そんな状態で。
泣きながら生きたいと叫んだあの焔の軌跡をそっとしておく。それさえ、適わなかった。賢帝と呼ばれようと、英雄と呼ばれようと、人の手はあまりにも小さい。
「仕方ないですよ。今は生きている民を優先しなければならない。死者より生者。それだけのことです」
「ああ、分かっている。それに“ルーク”はキムラスカの問題だ。他国の事情に介入するつもりは元よりない」
「ガイは怒るでしょうね」
「だな。あいつは当分出国禁止だ。感情的になると何をするか読めないからな」
自国ならかばいようもあるが、他国ではそうもいかない。
ピオニーはガイを気に入っている。何かあって処罰するような真似はしたくなかった。
「ルークの名はあいつのものだー。とか言って、バチカル城に乗り込んだらどうします?」
「やめろ。笑えん」
思わず想像できてしまうのが怖いところだ。
アッシュがルークの命を糧に生き返ったと聞いたとき、ガイはアッシュに殴りかかった。そう報告を受けている。ピオニーはその場に居なかったが、その後の荒れようはすさまじく、詳細を聞かなくてもある程度の想像が出来た。
3年の月日を得て、ようやく軟化してきたのだが。どうも彼らの和解はまた延期されたと見て間違いない。
「冗談ですよ。
ガイも分かっているんです。感情がついていかないだけで」
とても大切な存在だったのだと。
「お前にとっても大切な相手だったくせに」
「さあ、どうでしょう?」
ジェイドのおどける様子に、素直じゃないと、ピオニーは内心悪態をつくのだった。
「ところでレプリカ問題はどうなっている?」
マルクトもレプリカの問題は頭が痛かった。
被験者が持つレプリカへの差別意識は根強く、生半可な対応ではおいつかない。
人はどうしても「見た目」で対応を変えてしまう。大人の姿ならば、大人の反応を期待してしまうのだ。
だがレプリカはその当たり前に期待される反応を返すことが出来ない。
外見と中身がいびつに分かたれた存在に、人は生理的に嫌悪する。
そしてレプリカは劣化品だという認識が、格差と差別を助長し、埋めようのない溝ができてしまったのだ。
レプリカが命をはって瘴気の中和に協力したことは公開し、広めて意識の改善をはかったが、うまくは行かなかった。
レプリカは奴隷と同等の価値にまで下がり、所有物が被験者様の役に立つのは当然だと、享受してしまった。
ピオニーは共存をしたかったのだが、時間に任せるしかないと、被験者の意識改善の傍らレプリカを隔離保護に至った。
とてもじゃないが一緒の場所においておける状況ではなくなってしまったからだ。
「芳しくありません。第3地区に疫病がはやり、存続が出来なくなりました。疫が落ち着きましたら、他と統合予定です」
「そうか……」
隔離施設とはいっても、建物の中に押し込めているわけじゃない。
マルクトがとった方法は、開拓していない土地をレプリカに分け与え、レプリカ村とも呼べるところを作ったのだ。
だが残念ながらレプリカによる自治は出来ていない。被験者との接触を避けるため、派遣された軍の人間数名と、何百人となる自我のないレプリカの生活では刺激がいきわたらず、自我の芽生えを遅らせた。
彼らは話す事。戦うこと。歩くこと。それらを知っていたが、農民としての生活の仕方を知らなかった。
鍬(クワ)を渡し、土地を耕すことを教えるが、単純作業を繰り返すのみで、米なら米を作り続け、大根なら大根を作り続けた。
総して農業は単純ではなく、すべてを教え込むには人も金もなく、彼らは自給自足さえ出来なかった。
自ら家を作り出すこともできず、大部屋に雑魚寝。
毛布や衣類も充分に配布出来ず、更に偏った栄養素。
それらが重なり、彼らは序々に数を減らしていったのである。
「あの世でルークに顔向けできないな」
かの子供が残した功績はアッシュに奪われ、そして約束した願いもかなえられず、打ち捨てられていく。
彼の残した軌跡は、この世界ではすでに薄く脆いものに移り変わっていた。
◇
どこか無機質さを思わせる作られた空間。生なるものが存在しないその場所は、蝋で作られたイミテーションを思わせる。
生まれてから7年鳥かごにとらわれ、そして1年だけ自由に羽ばたいた哀れな赤い鳥は、再びとらわれていた。
そんな不憫な生き方をした朱い鳥こと、ルークはやることもなくただ庭の湖の淵に座り続ける。
「気を落とすな。愛し子よ」
「大丈夫だ。……仕方がないことだと、分かっているよ」
湖の下で、消え行く彼の軌跡。
死に行くとき、自分は生きたのだと、証を残せたのだと満足して儚げな顔をしていた事を思い出すと、どうにもローレライは辛かった。
「なあ。ローレライ」
「なんだ?」
「オレ。いつまでここに居ることになるんだ?」
「……アッシュが死を迎える時までだ」
アッシュに流れた音素が、彼の魂を生きながらえさせる。
「そうか」
ルークは小さくつぶやいた。