最初の予兆はおそらくこの時だっただろう。
マルクトで一番大きな研究所はグランコクマにある。ここでは新たなエネルギー問題や譜術などが研究されている。
その中のほんの小さな規模で、レプリカの研究はなされていた。
第7音素は今後減少し、新たにレプリカを作り出すこともできない。そして現状いるレプリカなんて二の次どころか荷物でしかない。そんな状況でレプリカ研究が大規模になるわけがなかった。国の管理下の元という厳しい条件下であるにもかかわらず、国の直下がこの調子である。他の研究所の規模など、考えるまでもない。
それでも、部屋の総責任者であるジェイドに不満はなかった。
確かに予算が大きければ出来ることは増える。だが彼は現状をよく理解していたし、なにより自分の手で責任を取りたいという気持ちが根底にあった。
「研究速度は確かに早くはありません。ですが、諦めなければ……」
軍属を辞め、研究に随時しようと思ったこともあった。だがカーティス家の恩義はある。その葛藤にピオニーが答えてくれ、レプリカの総指揮という立場とともに研究の時間を得た。
そして現存するレプリカのために、音素剥離を防ぐ方法を彼は研究していた。
「剥離現象がなければ、多少結びつきが弱くなる要因があったとしても生きていけます」
消える手に怯えるあの少年の姿が一瞬思い浮かんで消える。
一瞬ジェイドは哀愁を帯びたが、それも一瞬。すぐに眼鏡のふちを押し上げ、姿勢を直す。そして研究室にある椅子に座ろうとし、すぐにその体をこわばらせた。
腰を下ろすことはせず、近くの棚に歩み寄り、目的のものに食い入るように見つめる。
「これは……」
棚にはいくつかのゲージが並べられており、彼はその一番右を注視し、腕を組む。
「まさか、いえ、そういう仮説が立たないわけでは、ありませんが……。いえ、やめておきましょう。不確かな事ですし、事例はまだありません」
軽く首を振り、無理やり彼は浮かんだ仮説を閉じ込める。
考えたくないものだったからだ。
そして彼は誰にも告げることなく、重大な仮説を内に秘めこんだ。
ケースには、『2020年 レムデーガン 実験体 1号』と書かれている。
それはこの研究が認められて、最初に作成したラットのレプリカがいたケースであり、その中居たラットの姿は、消えて何も残っていない。
数ヶ月後――
ダアトにて、アニスは導師になるべく、毎日身を粉にして任務をこなしていた。
トリトハイムの計らいにより、モースの間諜になっていたことは伏せられ、英雄の一人として扱われていた。
だが伏せられていても、知っている人は知っている。
オープンだった関係は今更取り繕うことはできず、うわさと陰口は絶えなかった。
人間とは嫉妬する生き物であり、更にアニスは味方も作るが、敵も多々作り出す性格だった。彼女は若さゆえに、完全に棘を隠しきることが出来なかった。
そして彼女は弱みがある。
イオンレプリカである、フローリアンの存在。
二つの弱みをもって、悪意をもってアニスを害す。
表立って彼女に決闘でも申し込めば叩きのめす事は出来た。だが、そういう人間は、裏から精神的にもてあそぶものである。
フローリアンはそんなアニスの状況を知っていた。
時々いらだってくる彼女に何も言えず、微笑んで癒してあげることしか出来ず、歯がゆがっていた。
加えてフローリアンは、アニスに飼われていた。
そういう言い方をしたら、アニスは猛反発しただろう。だが現状はそれとさしたる差はない。
彼の身がレプリカというのは知れ渡っており、雇ってくれる場所はどこにもなく、ダアトに所属することはアニスによって禁じられていた。
その結果、漫然とお世話になり続けることしか出来なかった。
もちろん家事はやった。
だがフローリアンは自分が情けなかった。
働きたい。でも働く場所がない。アニスの役に立ちたい。でも慰めることすらできず、重荷になる自分。
そして、そんな折にその兆候は現れた。
「まさか、剥離?」
手を抱え、彼はくらい部屋で身を丸め震えた。
「――――誰にも言っちゃ駄目だ」
アニスへの負担を考え、フローリアンは兆候を誰にも言わないで、最後まで普通にいようと決めた。
その決意は、朱い英雄と同じ行動と一緒で。
「ルークも、こんな思いをしたのかな」
そうつぶやき、彼は自分しかいない部屋で恐怖に耐えるのだ。
そして。
ND2025 ノームデーカン。
アニスは軽く苛立っていた。
忙しく苛立った日々の業務を終え、休息を求めて帰宅しているというのに、やたらとフローリアンがまとわりついてくるのだ。
「疲れてんの。遊びたいなら次の休日に一緒してあげるからっ」
「お願い。少しだけでも一緒にいさせて?」
そういう姿にまだ10歳に満たないのだから。と無理やり押し込めていた気持ちは、とうとう休日を間際にして爆発してしまう。
「いい加減にしてよ! こっちはフローリアンみたいに毎日家で遊んでるわけじゃないんだよ。一緒にしないでよ!」
「……そうだよね。アニス。今までごめんね。ありがとう。僕アニスの事、大好きだよ」
なおも微笑みを浮かべて話すフローリアンの姿に、アニスは苛立ったまま部屋に入り込んだ。
疲れていたし、儚く笑うフローリアンの姿は彼女の望んだものではなかった。
加えてタイミングの悪い事に、アニスは最近、嫌味を繰り返す同僚に困らされており、普段より狭量になっていたのだ。
そうでなかったら、フローリアンの態度に引っ掛かりを覚えてもよかったのだけれども。
次の日、一晩を眠り彼女はだいぶ気が落ち着いていた。
「フローリアンに謝らなきゃ」
昨日の態度は自分が悪いと、彼女は思いなおすだけの成長は見せていた。苛立っていた。だからといって、他人に八つ当たりしていいものじゃない。
アニスだって分かっている。フローリアンが働きたくても、その場所が得られない事を知っている。その事を悩んでいる事も。
ダイニングでアニスはフローリアンの好物を料理して、彼が部屋から出てくるのを待った。
「せっかく、フローリアンの好きなもの作ったのに。冷めちゃうよ……」
いつもは起きてくる時間になっても、フローリアンは姿を現さなかった。
その時間に合わせて作った料理は、すでに湯気はなく、その味をそこないつつあった。
「寝坊しているのかな」
本来ならば、部屋まで起こしにいかないのだけれども。
ふてくされているのならば、謝罪するほうが先なのかもしれない。そう思い、彼女は部屋をノックする。
「フローリアン、起きてる? ふろーりあーん! あれ? 入るよ? 入っちゃうよっ!」
何度ノックしても、呼びかけても、何も返事がなく、反応もない。
いやな予感がして、彼女はドアノブを空けた。
「なんで!?」
小さな部屋で、小さなオモチャがいくつか並べられている。ベッドはひとつだけ。その部屋のどこにも目的の人物がいない。
アニスは瞠目した。
だけどすぐに気を取り戻し、ベッドの温度を測る。
まだ暖かさが残っている。
「まだ遠くにいっていないはずっ!」
アニスは家を飛び出した。
キッチンで、二つの皿に並べられた料理だけが、いつもの日常だった。
「見つかっちゃった」
ダアトの神殿の中。
ステンドグラスの光の下に、フローリアンの姿を見つけ、アニスはほっとした。
「ばかだよ。何年一緒に居たと思ってんの。考えていることなんて、すべてお見通しなんだから」
「そっか。そうだよね。……この場所ね、アニスに名前もらったところなんだ」
フローリアンは微笑んで更に付け加える。
「一番の宝物の記憶だよ」
「これからだって、一緒に思い出作ればいいでしょ。帰ろうよ」
アニスは儚げに見えるその姿が、亡きイオンの姿に重なって、えもいわれぬ不安に駆られていた。
「いっぱい思い出作ったね。僕アニスのこと大好きだったよ。本当に感謝してるんだ。アニスがいなかったら、嬉しいとか悲しいとか分からないまま消えていただろうし、こんなにもたくさんの幸せ作れなかった」
「やめてよ。これからも時間あるじゃん。なのに、なんで今そんな事言うの?」
「もう、時間がないから」
そう言ったフローリアンの姿が、光の粒子と一瞬重なって。
アニスはあわててフローリアンの元へと走りより、彼を確かめるようにぎゅっと抱きしめる。
「やだよ! もう失いたくない! 昨日の事なら謝る! もうあんな酷いこと言わないから、そんな事言わないでよ! 戻ってきてよ」
「ごめんね。アニス。僕導師の力なんてほとんどないけど、でも最後の日が分かっちゃったんだ。そして、ね。消えるならこの場所がいいって思った。アニスが来てくれるかは賭けだったけど、来なかったら旅に出たって思ってもらえるかなって。あ、でも、うぬぼれかな。なんとなく来てくれる気がしてたんだ」
「来るに決まってるじゃん……。だから帰ろうよぅー」
アニスは目から涙が止まらなくなっていた。
フローリアンの言う台詞をとにかく否定して、この場から連れ出して、あれはタチの悪い冗談だと言ってほしかった。
でも心の中では分かっている。
あまりにもこの姿は、あのイオンと似ている。
剥離する直前の儚さ。色彩の薄さ。その存在の不安定さ。
分かっているから、肯定する事が出来ずに、ただ否定する。イオンに続いてフローリアンも失いたくない。
「前に教えてくれたよね。ルークの事。僕は何回も会えなかったけど、生まれた事よかったって言っていたって。僕もそう思っているよ。生まれてよかった。生きてきてよかったって。
それは全部アニスのおかげなんだ。意味なんてない僕の“生”を意味あるものに変えてくれたのはアニスだよ。アニスがいたから僕に意味が出来た。
そしてさっきも言ったけど、たくさん思い出作れたね。もちろんレプリカという身は辛い出来事も運んできた。だけどアニスがいれば耐えられたし、その後には楽しい事も待っていた。アニスの作る料理はいつも最高で、笑顔はいつも僕を癒してくれた。
そしてね、自惚れかもしれないけど。僕もアニスを支えている。そういう自信もあったんだ。それが、僕が生まれて一番よかったって思う理由」
フローリアンは抱きしめるアニスを優しく剥がし、その手を繋いで目を合わせて必死に自分の気持ちを伝える。
アニスも涙にあふれた瞳で、その視線を真っ向から受け止めた。
「もちろん頼りにしてたよ。これからも頼りにさせてよぉ。ふろーりぁん……」
「よかった。自惚れじゃなくて。それなら心から生まれてきてよかったって思える。
ありがとう。アニス」
心からの微笑みを浮かべて。
その姿は光の粒子と一緒に舞った。音素は光となり、ステンドグラスへと上っていく。
アニスが握り締めていた手も、音素となって、手の間を潜り抜けて消えた。
音素を追いかけるように、ステンドグラスへと仰ぐ姿は、神に祈るかのようだった。
その後に何もつかめないと諦めると、手を顔に持っていき、声を張り上げて――――泣いた。
その一週間後。
マルクトの皇帝にフローリアンの死去が伝えられる。伝道者はアニスだった。
泣き続け、塞ぎ込むアニスの様子に、トリトハイムが動いたのだ。任務という名義ではあるが、昔の仲間にあって少しでも元気になればと。
そしてジェイドの仮説を聞く事になる。
「不確かな事は言いたくありませんが……」
「不確定でもかまわん。判断するのはこっちだ。いいから話せ」
そういう皇帝の命令がなかったら、ジェイドはその時も仮説を黙っていたかもしれない。
「レプリカは短命種なのではないかという仮説が立ちます」
そこから始まるジェイドの仮説。
「研究を再開し、定期的に作成していたラットのレプリカが、数匹剥離しました。すべてが生後6年の最年長のラットです。
最初は病気か何かかと思いましたが、年齢が古いラットという共通点がありました。6年前後がラットのレプリカの寿命だった可能性は捨て切れません。
ですが人間のレプリカは、6年以上生きています。ここで仮説をたてたのですが、生命体の意思や、作成時の音素の使用数が――――」
「まどろっこしく言うのはお前の悪い癖だ。完結に結果を言え。人間のレプリカはおよそ何年生きる?」
ピオニーはジェイドの台詞をさえぎる。彼が必要としているのは、後何年、レプリカ達に猶予が残されているかという数字だけ。それ以外の専門はジェイドに信任している。今は必要ない。
「比較実験の結果。個体差と生活環境の差で前後します。それらを踏まえて、8〜10年程度かと……」
その告げたジェイドの言葉にアニスは皇帝の前だと言うのに泣き崩れた。
フローリアンは9歳であった。
「分かっていればもっと一緒にいたのに。あの時邪険になんてしなかったのに。知っていたらっ」
そう慟哭するアニスの姿にジェイドはそっと顔を伏せた。
仮説を話したくない。それは彼の信念だ。だが伝えるべき情報を後回しにしてしまう事により、起きてしまう悲哀。それはもし知っていたら防げたのではないかと。
ジェイドはアニスから責められたら全て甘受しようと、手を握り締めた。
今もなお剥離を止める決定的な方法は見つかっていない。
だがアニスに伝えていれば、この数ヶ月の間悔いの残らない生き方は出来たかもしれなかった。死と向かい合わせではあるが、どちらが幸せであるかは、他者が決める事ではない。本人が決める事なのだから。
アニスは結局ジェイドを責める事はしなかった。
知っていたら早く教えてよ。そう責める理由も権利もあった。
だけど彼女は責めない。
(自分に非がある事を目隠し、他人を責める。そういう簡単な方法を取りたくない)
その決意が根底にあり、彼女を踏みとどまらせるのだ。
アニスが下がり、マルクトの皇帝と、その懐刀、そしてアルバンダインを中心とする重臣達が、謁見の間に残った。
「成長しましたな」
誰かがつぶやくようにポツリとこぼす。
皇帝は今後の対策を思案しており、その片腕は神妙な顔でうつむいていた。
だから突如こぼれたその声が誰のものなのか、誰に対してのものなのか。それを把握するのに、二人は時間がかかってしまった。
「失礼。なに、年寄りが感慨にふけっていただけですよ」
アルバンダインが扉の方、去った人間の先を見つめるように、顔をゆるませた。
「アニスのことか」
「ええ。6年前は良くも悪くも子供で、自分に素直でした。あの若さが持てる行動力で、救世に繋がったともいえますが、他人の思惑を考えて動く。そういうことは出来ていませんでした」
「そうだなぁ」
ピオニーは口に出して頷き、ジェイドは苦笑しながらも、顔は肯定している。
彼らは昔のアニスを知っているが、度々会っていた為にその変化を特別とは思わなかった。
だがアルバンダインは大業な謁見じゃないと顔を出さない。それゆえに接点は少なかった。だからこそ、しみじみと感じた。彼女の変化を。
「人は、他人と係わることで、悩み、悲しみ、衝突する。そして思考を重ねる事によって成長する。一人だけの生活や、緩慢な生活では成長しないものです」
「そうですね。あのアニスの成長は、フローリアンとイオン殿、そしてルーク。彼らとの係わりが良い刺激になったのでしょう」
大事な人の死は、大人でさえも取り乱す。恨み相手を見つけ出し、責めてしまうものだ。
だけどアニスは自分だけを責めた。
その姿勢の大元は、やはりその3人の生き様が原因だと思えた。
「ジェイド。その3人の為にも、レプリカの寿命延ばす方法を見つけだせ!」
「拝命いたしましょう」
ジェイドは敬礼し、身を翻し足早に部屋を出る。
彼に与えられた勅命をこなす為に。
謁見が終わり、警備兵が残っただけの空間で、ピオニーは滝を眺めていた。
(歴史から存在を消されても、アニスやジェイドの成長の裏にルークという存在が見えるな)
ジェイドもルークによって、「死」が分かり、いびつだった彼の一部は修正された。
本人は気がついていないが、彼に係わる人間が発する苦情や嫌味はずいぶんと減ったのだ。
係わりによる成長はきっと相互のものだったとは思うけれど。
(ルークの生まれた意味は確かにあった。歴史的出来事だけじゃなく、こんな些細な事ではあるが)
ガイや、ティア、ナタリア、アッシュと他の面子も成長している。
それは歴史という大きなくくりでみたら、意味のないことかもしれない。
(それぞれの人間の目からみたら、それはとても重要な生まれた意味だ。彼の足跡はまだ残っている)
大業はアッシュが上書きしてしまったが、消せないものはある。
それを見出し、少年を気に入っていたピオニーは喜びを感じた。
だけど、現状はそんな喜びに浸るほど甘いものではない。
赤い焔の願ったレプリカの存続は、いまや危うきものとなっている。彼のなした事にたいし、恩返しは何も出来ていない状況だ。
せめて願った事ぐらいかなえるのが、残されたものの使命だろう。
それに――――。
ピオニーにはひとつ、施政者だから考える懸念があった。
生きているうちはいい。あるものはくつがえせない。
だけれども。ないものは、どうとでもできるのだ。
歴史という大きな流れを見た時、フォミクリーの技術は――――。
「間に合わせろよ。ジェイド」
自分に出来ることは多くない。彼にとっておとなしく玉座に座り、行動が自由にならない現実は、歯がゆく、苦しかった。